トラウマ新人研修備忘録⑥ S君の逃亡

 どのカリキュラムにおいても、一際苦悶の表情を浮かべていたのがS君。身長170程度ながらパンパンにふくらんだ肥満体。わがままボディ。根性とか努力という言葉からは遠く離れた、大人しく気弱で、声の小さい優男。ほとんど話たことがなく、同期でただ1人、さっぱり顔を思い出せない男。「研修から逃げた男」という事実からでしか思い出せない男。ロストマン。


 「あれ、S君おらんくない?笑」

 「え?そもそもおったけ??笑」


 彼は、いつの間にか研修からいなくなっていた。体調不良で帰宅した、と聞かされたのは1日目の午前中のことだったか、とにかく、はちゃめちゃに早かった。そもそも参加自体していたっけか?と疑うレベルで。若く、未熟な当時の私は、彼を卑怯だと思った。苦しいのはみんな同じなのに、何故自分だけ逃げようとするのか、と。しかし、今思えば彼の選択は決して間違ってはいなかった。何故なら、時間の無駄だから。少なくとも、彼にこの研修は絶望的に向いていなかった。それに、彼がいようが、いなかろうが、私個人の苦しみは不変だ。「逃亡者」という仮想敵に攻撃することで自らを慰め、満たすは愚の骨頂。苦難な環境というのは得手して人間の本質を炙り出す。まさに今、コロナについての諸々もしかりだ。だから今感じる怒りなんかも、忘れないでいようと思う。

 話が逸れたが、こうしてS君はスッと研修から姿を消した。思い返せば、そもそも通常の業務においても彼は頻繁に体調不良などで遅刻や早退、欠勤をしていた。だからきっと研修というか、会社が嫌だったんだろうな、普通に。


 そして彼のいない時が過ぎ、、、


 『おはようございます。体調がよくなったので、今日の午後から研修に参加します。と、講師に伝えてくれませんか?』


 同期のグループラインに、S君からこのメッセージが届いたのは、逃亡から中1日をおいた3日目の早朝。青天の霹靂。いや、これにはマジでたまげたね。誰もが彼はもう、研修に参加しないどころか、てっきりそのまま会社を辞めるとばかり思っていた。あとラインのアカウント名が『如月佐藤坐衛門(きさらぎさとうざえもん)』ってのにも、たまげた。


 『こいつ、どの面下げて、、、』という、同期全員の心の声が、誰1人として返信しないグループラインから漏れ聞こえていた。誰もが戦慄するであろう、その沈黙を彼はどう受け止めていたか、今更知る由もないが、きっと何にも思っていなかったんだろうな。ま、じゃなきゃ送れんわな。呑気に朝飯のカレーライスでも食べていたんじゃないかな。

 そして数十分間の沈黙を破り、満を辞して返信したのは他でもない私だった。


 『そうゆうのはさ、自分で言おうよ』


  

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