エクスペリメンタルとゴリラの関係から見た構造的不完全情報における当該音源の再定義と考察


 

 はじめに

 エクスペリメンタル・ミュージック(以下、エクスペリメンタル)とゴリラ(学名:ゴリラゴリラ)(以下、ゴリラ)は社会通念上、全く異なる事柄と認識されているが、それは果たして早計ではないと一概に言い切ることができるだろうか。一見して全く別のジャンル、掛け離れたジャングルにおける点と点であろうと、流転する浮世の中では万物はあらゆる関係性および関連性を有しており、それは時として思い掛け無い共鳴を発起させる。本文はエクスペリメンタルとゴリラの関係性を観測地点として構造的不完全情報におけるt.frtmの新音源であるwork to live or live to work(physical)の再定義、および考察を実践した前衛的思考実験の記録である。


エクスペリメンタルとゴリラの再定義

 エクスペリメンタル。実験音楽と邦訳されるそれを意味するエレクトロニカやノイズ、ドローン等がクロスオーバーした様々なミュージック。ゴリラ。彼らの発する、エモーショナルなドラミングをはじめとした様々なミュージック。殊にドラミングはビートのみで構成したミニマムな音像が、複数匹のゴリラとその倍数のゴリラのフィストでオーバーダブされ、重厚で複雑なエクスペリメンタルに転じ、ミラーボールの光が乱反射するクラブハウスよろしく、青々と茂ったジャングルの草木の体を揺らす。では、ゴリラはエクスペリメンタルの一部だろうか。否、ゴリラの発するミュージックが一概にエクスペリメンタルであるとは言えない。それは先行研究『ドラミングについて本気出して考えてみた』(富美山混沌核/1970年)にて、ドラミングが8ビートならロックであり、発情期特有の2ビートなら青春パンクであると証明されていることからも自明である。つまりゴリラは単体において既にジュークボックス的フィジカルを有している。このことからゴリラはエクスペリメンタルの一部ではなく、エクスペリメンタルがゴリラの一部であると再定義できる。


異なるアングルからのアプローチ

 ここで、ゴリラの血液型が全てB型であることに着目したい。これはつまり、仮に交通事故などで重体となりの輸血を必要とした場合、どのゴリラであろうと対応が可能であることを意味している。全ゴリラが使用することのできる血液のサブスクリプション。これはミュージックで言う所のSpotifyであることは自明であり、古来よりゴリラにはspotifyのDNAが組み込まれ、それが現代に至るまで脈々と受け継がれている。人類におけるサブスクリプション・サービスが近年において漸く台頭してきたことと比較すれば、どちらが最先端かは自明である。

 サブスクリプション・サービスの構造として、そのサービスを使用する際の対価である月々、ないしは年の料金支払いは基本的にクレジットカードやディビットカード等を用いたキャッシュレスの決済である。広く世界で広め、かつ恒常的な料金回収の為に、キャッシュレスのインフラを整えることは人間社会にとって必要不可欠だ。だがしかし、それに対してゴリラはどうだろう。全世界、全ゴリラ共通でキャッシュレスである。日本におけるキャッシュレスの比率は決済全体の16%程度。そのうちゴリラがその6%を占めると仮定すると、日本人のキャッシュレスの比率は僅か10%程度ということになる。つまり、サブスクリプションだけでなく、キャッシュレスにおいても人類はゴリラに大きく遅れをとっているということになる。


ゴリラの奏でたミュージックの位置付け

 では、仮にゴリラがAKAIのサンプラーおよびフィールドレコーディング等を用いて奏でたエクスペリメンタルはどのように位置付けされるだろう。先述の通り、エクスペリメンタルとはゴリラの一部であり、ゴリラの血液型は全てB型である。つまり、「B型のゴリラがゴリラの一部を奏でている」と変換できる。となると、このワンオートリックス・ポイント・ゴリラである奏でられたゴリラの一部が仮にナイフで刺される等して出血多量となったとしても、別のゴリラによって奏でられたゴリラの一部、言うなればポイント・オブ・ゴリラによって輸血が可能であることは自明である。

 ここで問題なのが、このポイント・オブ・ゴリラが2匹集い、仮にポイント・オブ・ノーリターンをハモった場合の位置付けである。ポイント・オブ・ゴリラがエクスペリメンタルである以上、そのハモりが如何に美しい旋律であったとしてもポップ・ミュージックと位置付けることは至難の極み。無論、ミリオンセラーなど程遠い。ただしかし断言できるのは、それこそが私とゴリラにとって唯一のケミストリーであるということ。そして、徒に千切られて、捨てられていくということだ。想いは、思いのままで。


バタフライエフェクト的思考実験

 この重層的な構造において言えるのが、仮にゴリラの原点における血液型がABであった場合、続く全ゴリラの血液型はABであり、サブスクリプションされる血液も当然AB型ということになる。勿論、決済方法はキャッシュレスに違いない。

 時に、私の血液型はABだ。10年前、私が交通事故で輸血を余儀なくされた時、使用されたのは母親の血液だった。しかし、もしゴリラの血液型がAB型であれば、今現在、私の体を巡るのはゴリラのそれであったことだろう。すると今回のこの音源におけるエクスペリメンタルも、ともすればゴリラの一部a.k.aポイント・オブ・ゴリラだったのかもしれない。とすれば日本円にして500円で私はゴリラを販売している訳である。これはオーストラリア条約的なメンタリティでの重大な過失と言えるだろう。さらにはゴリラの不当な雇用契約とも言える。つまり働き方改革が叫ばれる昨今で、同一労働同一賃金の考えは当然取り入れるべきであり、私の年収2000万円に対し、ゴリラの生涯賃金500円ではその考えと実情があまりに乖離している。この時罰せられるのは当然、雇用主である私であり、ブタ箱にぶちこまれたとしても一切文句は言えないのである。

 つまり、ほんの僅かな影響(仮にゴリラの血液型がABだった場合)で、支配層であり豪邸で毎朝フランスパンにキャビアをディップする私は、一転してブタ箱で臭い飯にダクトから排出される空気をディップすることとなる。学術的にこれをバタフライエフェクトと呼ぶ。

 

回帰する観測地点からの不完全情報

 このことから本作において留意して頂きたいのが「あなたがエクスペリメンタルを感知した際、作者(t.frtm)の実存が不完全情報であれば、それがゴリラである可能性は完全に二分の一である」ということだ。つまり、ブラックボックス内においては認知の上では理論上、私とゴリラはハーフアンドハーフであり、言うなれば『シュレディンガーのゴリラ』ということになる。私をt.frtmたらしめているのはあくまでも自らの掲示するクレジット上でしかない。g.frtmと表記すればすなわち「ゴリラ・フルトミ」である。いや誰がゴリラや!と叫んだ声は孤独な部屋に虚しく木霊した。安物のワイングラスにギリギリまで注がれたボジョレー・ヌーボーが共振し、大きく波打った。慌てて私はそれを零さないように自らの口をまるで腹をすかせた野犬のようにテーブルのグラスへと近づける。こうして味わうと、より一層、ワインの味の違いなどわからない。

 いつからか私は、世間一般に認められた、権威づいたもののみを享受することに慣れてしまった。視聴率の高いテレビ番組を見て、ノーベル文学賞を受賞した本を読み、レコード大賞や紅白出場アーティストの音楽を聞く。今まさに口にしたボジョレーだってそうだ。若い頃の私はもっと凡ゆることに飢えていた。物事をより精査し、何が本当に優れているのか、何のイデオロギーがあって、何故心を動かすのかを考えていた。しかし、それを繰り返した所で、行き着く先はただの「面倒臭い奴」だった。 

 つまるところコミュニケーションに必要な教養と呼ばれるヤツは、世間一般に溢れ、極めて短期的にサイクルする有象無象のことで、それ自体に意義や価値を見いだすことは時間の無駄ということだ。それにそのサイクルを受動的であろうと享受し続ける事はやがて壮大で重厚な意義を持つようにすら最近は感じている。こうして私は、他者と滅多に軋轢のない、安寧な生活を手に入れることができた。今の生活に全く不満はない。しかし時々、形容しがたい激情が沸々と胸に宿るのだ。突如訪れる「能動的な感性を研ぎ澄まし、ドラマーとして食っていきたい」と叫ぶ声はどんなにアルコールで酩酊しても、深い眠りの中ですら止むことはない。その声を遮るただ一つの方法は、かつて、たった一度だけ深く深く愛したもう二度と会うことのできないあなたの写真を抱きしめることだけだ。

「大丈夫。あなたは決して間違っていないわ。生きていけばいいのよ。まるであの日、動物園で見た、檻の中の人間みたいにね」

 写真立ての中、優しく微笑むメスゴリラが呟き、また変わらぬ日常へと私は回帰するのであった。


人気の投稿